これでもかというほどに、「自由」について考えさせられることの多い今日この頃です。

「自由」の定義は、本当に人それぞれのことと思いますが、わたし自身は、エーリヒ・フロムの『自由からの逃走』やルドルフ・シュタイナーの『自由の哲学』などに影響を受けた考えを持っています。

つまり、好き勝手にすることや、嫌なことからの解放を「自由」と呼ぶのではなく。

心と頭と行動がひとまとまりに噛み合っている状態。一致している状態。

それが自由の正体ではないかな〜、と思い始めているところです。

本当のところ、それを何と呼ぶかはどうでもいいです。

とにかく、それをする本人にしかわからない領域があるということ。絶対、他者には入り込めない領域が、一人一人の中にあるということに、強く思いを馳せています。

自ら発するもの。他人からは強制できないもの。主体性。自主性。その在り処。

わたしはこれまで、たくさんのものに傷つき、喜びながら、その正体を探ってきたように思います。なんだかわからないものの正体を、必死に守ってきました。

仮に「自由」と呼ぶそれ。その精神がいきいきと宿る場所を、わたしは次のような活動に見出してきました。

一つ目は、贈ることです。

取引でもなく、交換でもなく、贈与。自らの、その人の自発性なしには生まれない行為だと思います。

いまの職場も、「この恩恵が次の人へ届くように」という気持ちから、それぞれが好きな金額や労力をギフトして成り立っている場所だから選びました。

それこそ、自分の大事にしたいことが最も尊重される、貴重な場所だと感じています。

二つ目は、踊ること。

芸術活動を通じて、その一致感を追求できるなんて!新しい、楽しい修行の形を見つけた気分です。これからも、習慣として大事にしたいと思います。

三つ目は、咀嚼・消化すること。

これは食べ物に限らず、情報に関してもそうだと思います。偉大な過去の知恵や、権威ある人の教えに触れたときも、自分のものになるまで噛み砕くことを心がけたいです。その人の力で、その人のものになるまで、辛抱強く見守りたいです。

四つ目は、ことばを発すること。

身近すぎて見過ごしていましたが、想いをのせて発する「ことば」もまた、その人の自由に任されたものだなと感じます。

というのも、ここ数年、謝罪を強要されることが何度もあって、その度に言いようもない屈辱感や苦しみに苛まれてきました。

納得していないこと、消化しきれていないことに対しての、「謝れ」の一点張り。謝るか、謝らないかの二択しか与えないという姿勢。

一度だけ、どうにも場が収まらなくて、納得できないままふりしぼって謝りましたが、あのときの、自分が壊れていきそうな感覚が忘れられません。

気持ちの噛み合っていない「ごめん」を無理矢理に引き出して、それで本当に気が済んだのだろうか? 相手に対しても疑問でした。同じ、ことばの芸を愛する者だからこそ、とても悲しかったです。いや、いますごく悲しい。

悲しいけど、わたしはことばに宿っている精神の自由を、自分のも、みんなのも、徹底して守りたいんだと強く自覚することができました。